坐禅は習禅には非ず

禅宗のお寺でよくある坐禅会に時々参禅している。そこで、坐禅の仕方、心構などが書かれた「普勧坐禅儀」というお経(なのか?)を読む。
この「普勧坐禅儀」に次のような一節がある。

いわゆる坐禅は習禅に非ず、但是れ安楽の法門なり。
菩提を<究尽するの修証なり。公案現成、羅籠未だ到らず。
若し此の意を得ば竜の水を得るが如く、虎の山によるに似たり。
当に知るべし、正法自ら現前し、昏散先ず僕落することを。

坐禅は悟りを手に入れる目的を持って修練する自己満足追求のためのものではなく、それは、大自然の生命の本来のあり方そのものである。大自然の本来のあり方をそっくりそのまま実践することである。悟りの真実そのままであり、鳥を捕る網や籠というような手段のようなものなど遠く及びもつかないものである。もしこの意味を得られたならば、竜が水を得、あるいは、虎が山に放たれたように生き生きとするに似ている。本来の自己である大自然としての身体が自然と実現し、心が沈んだり浮ついたりする様なことが消えてしまうことを知るだろう。

この解釈で本当に正しいかどうかはわからないが、つまり、坐禅はそれをすることによって結果何かを得るというものではなく、坐禅をすること自体すでに悟りであり、その状態が宇宙・大自然のままの自己であり、悟りを開いた"仏"であるということなのだそうだ。
なんだか文章にする上手く表現しきれないが、要するに、坐禅はすることに意味がある、身体を使って実践することが悟りなのだから、表現できなくて当然なのかも知れない。