これは深い...

>「茂木健一郎 クオリア日記」の 4/2425 のはなし。

う〜ん...。これは...深い...。素晴らしい^^。

いろいろな方とお話していて、良く聞かれるのが、「○○は脳に良いですか?」という質問である。


(中略)


 取材などを受けていて、「朝チョコレートを食べて、コーヒーを飲む」と言うと、すかさず、「それは脳に良いですか?」と聞かれる。「そんなに単純ではありません」と言っても、なかなか納得してもらえない。


 繰り返し言うが、単なる趣味の問題である。もし、本当に朝チョコレートを食べるのが脳に良いのならば、毎日欠かさず食べれば良かろう。私は、家にいる時はチョコを食べることが多いが、食べるのを忘れることもある。今日は旅先だが、そもそも部屋にチョコレートがないので、食べようと思っても食べられぬ。


 むしろ、発想を変えて、「脳に悪い」ことは何かと考えるくらいでバランスがとれると思う。たとえば、すぐれた芸術作品に接することは、脳に傷がつくようなものである(拙著『脳と仮想』参照)。カフカの『審判』や『城』を読んだ時、私は「やられた」と思った。人間という存在の根源的なやっかいさ、怖ろしさを見せつけられたように思ったからである。


 カフカなど読まずに、お花畑の中で生きている方が「脳に良い」と言えないこともない。ある評価関数を設定すればそうなるだろう。しかし、私は、やはりカフカを読んだ方が良かったと思う。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことも良かったと思う。


(中略)


「○○は脳に良いですか」という質問には、あまり意味がないのである。

自分的には、仏教(あるいは禅)の教えにその答えがあるのかもな・・・と思う。

続き。

 ある程度の蓋然性を持って、脳がより高い働きを果たすことが期待されることが皆無だというわけではない。


 たとえば「新しい」経験をすること。周知のように、人間には新奇選好(neophilia)があり、新しい体験を通して、さまざまなことを学ぶ。


(中略)


 新しい体験をすること。多様性を増大させること。偶有性と向き合うこと。これらの処方箋に共通なのは、それが個々の具体的な事項を越えたいわば「メタ」な概念であるということであり、また、一人ひとりの現状に依存して、その実質が異なるということである。


(中略)


 このように、かなりの蓋然性をもって「脳に良い」と考えられることは、個々の具体的な事例を越えた「メタ性」と、一人ひとりの状況に依存した「個別性」を兼ね備えており、だからこそ、脳についてさまざまな文脈において措定される「評価関数」においても、頑強(ロバスト)なふるまいが期待される。

世間の「脳に良い」ということは、人それぞれの事象で異なるのだから、一般論として論じる時点で全く意味がないw

 「脳に良い」という概念の捉えられ方をより「メタ」で「個別的」なものにすることができれば、脳科学から社会に対する発信は、より実質的に意味があるものになるだろう。

ふぅ〜む。さて、どうやって...^^; 俺には理解することは無理か...w