Memo(2/19)

いろいろ

> 中川財務大臣の「無残な辞任」と「世襲の限界」 (保坂展人のどこどこ日記, 2/18)

強者の側に立ち、歴史の闇に封印されている過去の日本軍の戦争犯罪などはとるにたらないと割り切る「田母神歴史観」が、多くの世襲政治家に受け継がれている。戦争体験世代の政治家だった親たちが「痛み」を持って戦争をふりかえるのに対して、子どもの世代にとって「国家」も「戦争」も実体験ならぬ観念である。若い者はやがて老い、強者も転じて弱者になる。逆境に立ち、辛酸をなめた時に、その人の資質や容量が問われる。政治家は、土壇場にあって生活危機に直面している有権者・納税者・市民の「痛み」を共有する想像力がなければならない。この資質がなければ、「強者の奢り」の政治となる。麻生太郎総理や小泉元総理も、「痛み」を国民に押しつけても、痛痒を感じることなく平然としていられる特性を持っている。


郵政民営化の結果、あらわになってき郵政公社時代の「かんぽの宿」の叩き売りなど、ぎりぎりの生活の中でもコツコツと積み上げてきた簡易保険の加入者の共有資産だと思えば、1円でも高く評価を得るように努力するはずではないか。鳩山邦夫総務大臣も金に苦労したことのない世襲政治家だが、彼が今回の一括譲渡問題に対しての語る「義憤」がどこに由来しているのかを時間をかけて聞いてみたいと思う。しかし、見渡せば二世、よく見れば三世という世襲議員が政府・自民党のほとんどの要職を占めるようになってしまった結果、政治の対応力の劣化につながっているような気がしてならない。

そういう人たちを誰が選んでいるのか、みんなちゃんと考えなくちゃ。